
(94)武士はなぜ貧しかった?
『武士の家計簿』を書いた磯田道史氏は、加賀の前田家につかえた、低い身分の武士の家計簿「130年分」の古文書を神田の古書店で入手した。ミミズののたくった文字を判読(筆者は尊敬します!)この家計簿、なぜこれほど詳しいか? 答はあたり前で、そろばんを以って前田家に130年以上つかえた家のもの。
だいたい18世紀は、世界でも身分制度が算術から崩れる時代だったという。国家や軍隊を作るのは身分だったが、算術が取って代わり、貴族の世襲が崩れる。算術は世襲に向かない。大砲を使うと、弾道計算の砲兵将校・地図作成将校は幾何学など算数が駄目だと使えない。しかし、算数が出来るかは、個人の能力にある。
加賀前田家では、「御算用(ごさんよう)」という、ソロバンと筆に優れた人材がいつも不足していたが、ソロバンなど武士の風上にも置けぬもの、身分は低いから、腕が立つ者を適当に連れてきてお役につけた。この中に猪山(いのやま)家があり、これが家計簿の主人公らだが、明治維新まで5代に渡り前田家につかえた。加えて詳しい家計簿を残した。
ざっとみると①猪山市進 ②左内やすゆき ③金蔵信之 ④屋左衛門直之 ⑤左内成之となる。姓がちがうのはたぶん養子だとか婿養子の関係だろう。俸禄(給料)は少なく切米40俵、カツカツで食っていける程度、殿様の家来の家来だから陪臣といって馬鹿にされる階級だが、実務には長けている。馬鹿にして学ばないようにした藩もあるが、行政にはソロバンは欠かせない。
ギリギリの収入だったが、猪山家は、頭脳明晰な男子二人に恵まれ、二人とも御算用に採用され、それぞれが切米40俵を頂いた。ひとつの家から3人が役につくとは妙に聞えるが、身分が低かったから誰も何もいわなかった。結果として一家で三人分の切米(給料)となり、家としては120俵になる。これなら楽だ。父親は教育熱心で、子どもたちに「筆算」を特訓していたのがよかった。士分は長子相続だが、これは身分の高い武士の話、御算用係など下級は「腕でつかえる」ものだった。だから何人いても誰も気にもしなかったのだ。いつの世も特殊技術は身につけておくものだ。脱線するが「加賀の数学好き」は有名で「近代は海軍の時代」となり「海軍は数字のかたまり」だから明治海軍に薩摩・佐賀に混じり加賀藩出身者が多かった。
実は加賀藩では他藩とちがい御算用を使いこなし、国を治めている。領地測量、つまり検地だが、通常は一度かに二度のところを、より念入りに行った。普通は「政治が会計」を行うが、加賀藩では「会計が政治」を行った。そんな家風の中、身分は低かったが有能だったから、殿様近くにつかえ、長くよく勤めたとお褒めがあり文化5年(1818)に俸給が増え、50俵となった。殿様は100万石、50俵が良くお世話をした。
次は七代となるが、娘はいたが男子がいない。よって婿養子を迎えた。江戸時代は養子が盛んだったが、加賀藩士のうち、実子相続は57.6%、後は弟・甥が7%、残りが養子縁組で35%だった。つまり加賀藩士は3人に1人が養子だったのだ。
直参が陪臣から養子の場合は、手続きが煩くなるが、御算用は身分がもっと下で無関係だった。
一時、猪山家は藩用の買い物係を命じられ、江戸詰めとなる。江戸詰は金がかかる。非常に難しい立場だ。出世の糸口にもなったが、借金の山となるケースが多い。このときは無事だったが、再び江戸詰めを命じられる。
なんと藩主前田斉泰が幕府将軍家斉の娘と結婚することになった。で、「御住居向買手方御用ならびに御婚礼方御用主付」(読み方不明)という長ったらしい役を命じられる。今も残る東大赤門の時の話で、家斉の娘「溶姫」との婚儀に必要な、すべての品を買い込む係である。
このときの彼のメモが古文書に隠れていたそうだが、「加賀藩は財政が逼迫(ひっぱく)しているのにどうしようか? とにかく婚儀だけはうまく片づけねば」と必死の覚悟が見えるとか。
もっとも、このとき目覚しい働きをしたからと、新知70石を拝領する。新知というのは領地を貰うことで、武士としての格が違うのだ。
話が飛ぶようだが、武士で自分の領地を見たものは少ない。【兵農分離】があり、勝手に領地にはいけない。武士は何処へ行くにも、いちいち許可が必要だった。その結果は、紙の上の数字となる。武士の御子孫に「どの位ロクを頂いたか?」を尋ねると簡単だが、「領地は現在の何処になるか?」と聞いて答えられた子孫はまずいない。藩の官僚機構がこれを代行していたためだ。加賀藩の場合は、御算用場がこれを行っていた。つまり猪山家の独壇場である。明治維新で、武士が簡単に土地を手放した理由に、土地所有実感がないことがあるのではないか。鹿児島などはチョッと特殊で土地と密着していたから 頑強な抵抗運動がおきたと推理できる。
猪山家の経済状態
目出度く領地を貰ったが、猪山家はやはり、江戸詰めで、借金の山となった。入りより出が多かったのだ。切米40俵のほうが生活は楽だった。一般的に武士の借金は年収の2倍というのが普通といい、鳥取藩では平均値となっているそうだ。結果として年収の33%が利息に取られる。また親類間で行う借金が多く、利息は18%が普通だったという。また天保年間から頼母子講(たのもしこう)が盛んだが、講仲間3分の1が親類だった。
武士の親族関係は、日ごろから濃密だったが、すぐに金融に転化という側面もあった。今なら副業を考えるだろうが、この時代の武士はきわめて小規模な手仕事であればともかく、看板をあげるような事はできない。明治になってからも看板を上げぬ商売が流行り、これが武士の商法といわれたもののひとつだ。
①
猪山家はどうしようもなくなり、ある日「大決心」し「借金返済大作戦」を開始した。「売れる家財はすべて売り払う」ことにした。女性は着物、父親は茶道具 蒔絵の道具 当主は書籍を諦めた。和算の本(塵劫記)もあったが安かった。高価だったのが四書五経の四書セット。現代価格で22万円くらい。全部で、現代換算で千二十五万円となった。猪山家の「不退転の決意」は周囲の債権者をも納得させ、親類からかなりの寄贈金があった。
また商人へは「元金の4割をこの場で返済する。だが残りは無利子で十年腑に」との交渉が成功した。作者の「磯田道史氏」は、もし一大決心がなかったら猪山家は倒産していたとパソコン・ソフトを使い計算されている。
さて、国家として農民が納めた年貢はどうなっていたのだろうか?
年貢の平均を五公五民とすれば、武士の家計で、国内総生産の50%を消費していたはずだが、総生産額が多くなり、後期は25%ほどに低下する。(木綿、漆、藍、タバコなど現金作物が増えた。)単純計算は無理としても、これは相当苦しかったと思える。
そこから接待交際費 年中行事 先祖・神仏を祭る費用が多く、これがないと武士としては仲間に入れず、これを「身分費用」と磯田氏は呼んでいる。反対に収入を「身分収入」としている。江戸初期は身分収入が上回っていたが、後半は常に身分費用が身分収入を上回っていた。繰り返すがこれは節約できぬ支出だった。無駄のようだが、支出しないと江戸時代の武家社会からははじき出される。
明治維新では、武士の身分収入が減ったことだけ取り上げられるが、ホントウは、身分費用からの開放で、ホッとしたというのが武士のホンネではないかと、作者が書いている。身分費用は全体支出の三分の一以上、祝儀交際費が多い。これも江戸詰の武士は膨大となる 親戚交際費も大きい。また家来・下女の人件費も大変だ。訪問してくる他家の家来には「お引き」という「チップ」が、一回に十五文、正式な訪問者には「手土産」を持たせて返すが、馬鹿にならない。葬儀・婚礼・出産・病気見舞い・昇進・引越しと、物凄い金額が必要だった。
男の家来と下女の費用は「家来給銀等」として計上されているが、このほか盆暮に、83匁、年間155匁 その他毎月50文づつ小遣いが必要。正月の登城・年始周りは、家来を雇った。最も恩恵を受けたのが家来・下女だろう。金沢周辺の農家の出身者と思われるが、武士の貧乏はいやというほど目にしているところ、小遣いまで貰っている。
猪山家の年間収入は、現代の価値で千七百四十二万円、主人の自由は19匁と馬鹿げて少ない。(金沢は上方で銀本位制)
江戸時代に農民革命が起きなかった理由はここにあるのではないか、と作者は書いているが、思わず「そうだ!」とうなづきたくなる。百姓一揆は生活のためで、身分制度破壊ではない。女性は弱い立場とされたが「おばば様」となると大変な権力者となる。つまり年齢と出産量で決まるらしい。また夫婦財産はキッチリ別となっている。妻から○○円(今風に)借用などの記述が見える。寿命が短かったからすぐに死別、また「すぐに離婚」が多かったから、いつ離婚してもいいように夫婦財産を別にしたのだろう。
宇和島藩の例では、離婚後の女性はさっさと再婚している。貞婦は二夫にまみえる、のが普通だった。結婚した56組を追跡調査したところ、3年後 20組が離婚死別していた。江戸時代の武士といっても、固定イメージとはだいぶ違って見えてくる。
引用本:『武士の家計簿』磯田道史著 新潮新書


by hoihoihoi
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