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(330)グラバーの息子

2012/04/26 18:13

 

  

 

(330)グラバーの息子

 

 オペラ『マダム・バタフライ』つまり蝶々夫人の舞台にもなった長崎の観光名所グラバー邸の主(あるじ)トーマス・グラバーのご子息・富三郎氏について書かせていただく。
 

 父のトーマス・グラバーは抜きんでた商才と才能の素晴らしさを、幕末の日本を訪れたシュリーマンに褒め称えられている。薩摩・長州との関係など日本の近代化に果した輝かしい数々の功績により、日本政府から外国人に対する最初の勲章を授与されている。勲二等旭日重光章を贈られ、輝かしい晩年を過ごしたが、母・加賀マキとの間に1870年(明治3年)次男の倉場富三郎(英名:Thomas Albert Glover)に恵まれた。

 

 ちなみに倉場の姓と富三郎は、日本国籍を取得するとき「グラバーとトーマス」をもじったとされる。長崎に生まれ、学習院、イギリスのケンブリッジ大學を経て、アメリカのペンシルバニア大学を卒業、二十四歳のとき日本に戻った。

 

 富三郎氏の功績は多大だが、特に有名なのは、長崎汽船漁業会社を設立、「トロール漁法」を日本に導入して大成功し、この漁法を日本に定着させたことがある。このため長崎の水産漁業は大発展を遂げた。

 また水揚げされた魚を三名の専属画家に描かせ、魚類図譜、正式名は『グラバー図譜――日本西部および南部の魚類図譜』とよばれる貴重な資料を残したことである。八百余の正確な図の原本は、現在、長崎大学図書館に保存されている。東京大学図書館にその復刻版があるが、実に見事な、また美しい出来栄えで、所々に富三郎の覚書や、漁夫仲間の呼び名などが彼自身の筆で書き込まれて興味深いという。富三郎のまじめな人柄がにじみ出ているそうだ。中野ワカと結婚したが子どもはいない。

 

 富三郎氏が最も大切にしたのは、なによりも「日英友好」であったという。ところが世の中の動きは逆の方向に動き始め、日英関係は悪化し、第二次大戦に突入してしまう。
 富三郎が住んでいたグラバー邸は「戦艦武蔵」の極秘建造が始まったとき、三菱重工業長崎造船所を見下ろす位置にあり、譲り渡して大浦に移った。多少の経緯が、吉村昭著『戦艦武蔵』に書かれていたと記憶する。

 戦争の激化と共に敵国人とされ、憲兵につけまわされ、日本人の友人たちも次第に富三郎氏を避けるようになった。
 戦争中に愛妻ワカとも死別し、子供もなかったため天涯孤独、1945年8月9日、長崎に原爆投下、終戦から十一日目、富三郎氏は大浦の自宅で縊死した

 

 死後見つかった遺書には、次の二つが書かれていた。一つはグラバー図譜を渋沢敬三氏(大正・昭和の大実業家、民俗学者)に託すこと、もう一つは長崎市復興のため「拾万円」を寄付することであった。日本に好意を持ち続けながら、報われず痛ましい結果となった。
 

 享年七十四。今は坂本国際墓地にグラバー父子とそれぞれの配偶者が静かに眠っているという。グラバー親子は、わが国幕末史、近代工業発展に大きな寄与をなした。長崎に行くことがあれば静かにお参りしたいと考えている。

 なお、三菱重工業長崎造船所は、今もグラバー邸の目の下で稼働している。
 

 

引用図書:『シュリーマン旅行記』講談社 訳者 石井和子の随筆から

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(329)咲いた咲いたサクラが咲いた

2012/04/23 12:10

 

 

 

(329)咲いた咲いたサクラが咲いた

 

 東京都内でのソメイヨシノが終り、今回は桜川(茨城県桜川市岩瀬地区)までいってきました。ご案内のとおり、ソメイヨシノは江戸時代後期(断定されたのは明治になってかららしい)で豊島区駒込あたりの植木屋さんが造った品種だそうで、成長が早いため色々便利、全国に広がったとか。そこで今回は趣向を変えて江戸期のサクラをお楽しみいただきたく存じます。
 

 
 ソメイヨシノは純粋種どうしでは結実しないため、接木(つぎき)で育てるとかで、いってみれば日本中のソメイヨシノは遺伝子が同じ「一本からでたクローン」なんだとか。何しろホントに広まったのは明治からでして、その代わりに、おなじ気候で開花の時期が同じとなりまして「桜前線」なんてことで,ワーッと日本を盛り上げてくれます。ただし60年ほどと寿命が短い欠点があり、同品種ですので同じ病気に弱いなんて傾向もあるとかで色々と研究中。
 
 ということは、日本伝統の桜は違ったものでありまして、こっちは吉野桜とか山桜とかいうんだそうです。それぞれ遺伝子も異なり、花の色、開花期、形が違います。日本の自生種はもともとは九種類しかないそうですが、開花も姿もちょっとずつ違います。もっとも総合では日本はダントツ一番だそうです。

 

 関東地方では桜川(さくらがわ・現・桜川市岩瀬地区)が有名でして。平安時代の歌聖、紀貫之(きの・つらゆき)が歌に詠み、室町時代には「幽玄能」の大家、世阿弥が作った謡曲「桜川」の舞台にもなっています。
 江戸時代には歴代将軍により、隅田川堤はじめ江戸各所に移植されたとか。
 特に水戸光圀は、桜川磯部稲村神社をたびたび参詣し、この地のサクラをえらく気に入りまして、持ち帰って偕楽園前の小川に移植し、「桜川」と名づけたそうです。桜川地区は大正13年国指定「名勝」に、昭和49年には国の「天然記念物」に指定されています。

 

 『万葉集』の編まれた時代までは、梅と菊の鑑賞が中心、サクラに対してはそれほどでもなかったらしく、サクラの歌は『万葉集』だと「梅」の半分以下、しかし『古今和歌集』だとほぼ同数となるとか。『古今和歌集』では、
 
世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし

 在原業平(ありわらのなりひら)の歌がよく知られています。世の中に桜などなければ春の人の心はのどかだろうに、なまじ桜があるばかりに、いつ咲くか、咲いたら何時まで持つかと心が休まることがない、と否定するかたちで桜の美しさを強調しているとか。
 

 わが国ではただ「花」とだけいえば、春の花を代表させ「桜」を意味するそうですが、もっとも『万葉集』の
あをによし奈良の都は咲く花のにほふが如くいま盛りなり

 の場合は梅のことだよ、と高校で習った気がする。同じような歌に紀貫之(きのつらゆき)の

 

ひとはいさ心もしらずふるさとは花ぞむかしの香ににほいける

 の場合は意味から考えて「梅」とするのが正しいそうで、なかなか複雑だ。『古今和歌集』でもう一つ有名なのが紀友則による

ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花のちるらむ

 があったっけ。意味は解説本によると、悠久の天からの光がみなぎり、いつまでも続くかのようにのどかなこの春の日中(ひなか)に、どうしてあわただしく花の散ることか、とあります。

 

 桜の花のはかなさへの哀惜は、のちに賛美へと変わって花吹雪の華麗と優雅さは誰も否定できないだろう。典型的な例が江戸時代後期の国学者、本居宣長(もとおり・のりなが)の
敷島(しきしま)の大和心を人とはば朝日ににほふ山ざくら花

 で、実に清麗な歌だと思うが、ちょっと前だと「み国のため散る(死)を厭わぬ大和魂なるもののスローガンに利用された」と勝手に説明しちゃうのがが通例だった。こういうのも流行でして、本物を見れば分かるからそのまま楽しめばいいだけです。

 

 梶井基次郎(1901~32)の散文的小編「桜の樹の下には(昭和6年)」での

 

 桜の樹の下には屍体(したい)が埋ってゐる!
これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。
しかしいま、やっと分かるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋ってゐる。これは信じていいことだ
(以下略)

 が「非常によく知られている」、とあります。連休明けまで楽しめると案内書に。野生種のサクラであれば都内の新宿御苑でしょうか。

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(328)梅は咲いたか桜はまだかいな

2012/04/02 17:38

 

 

 

(328)梅は咲いたか桜はまだかいな

 

 春の兆しが明快となり、梅を見たくて群馬県甘楽町(かんら・まち)へ行ってきた。甘楽町役場の反対側にある大きめの丘というか土手というか、マアそういった所が梅の名所といってもいい場所になっている。見事な枝振りでさまざまな色合いが満開で、見事な風景を楽しんだ。桜はまだまだでした。

 

 この甘楽町の歴史は古い。織田信長の子孫たちが八代に渡りこの地に住んだ。前に訪れた折、男子フィギュア・スケートの「織田選手よ頑張れ!」などとの垂れ幕が町役場の壁に下がっていた。そういう土地柄である。

 もっとも織田家は152年間続くが、江戸期に「松平家」に変わったから、そう長い期間というわけではない。この地に織田家七代の墓が残されている。織田信長の次男、信雄(のぶかつ)から始まっている。「信雄」と書いて「のぶかつ」と読ませるのは少し無理があろうかと、たいていは一度で記憶に残る仕掛けになっている。

 

 最近、この城下町にあった、最初は織田氏によって造られた「楽山園(らくさんえん)」が随分出来上がり一般に公開されている。正面門から入るとゆったりとした池が目に入り、背後に三つほどの山が借景となって、いい雰囲気だ。
  

 

 やや右手の小山に茶席がしつらえてあり、十メートルくらいはこの中から辺りを睥睨(へいげい)して、「殿様・お姫様気分」を味わってくださいと案内があって楽しい。この庵の右手に白梅の古木があって、丁度いい咲き加減を楽しんだ。

 その他織田宗家七代の墓、雄川堰とか武家屋敷とか歴史深い観光を楽しめる。

 

 さかのぼるが、天平二年(730)での九州太宰師(だだいそつ)の梅の大宴から、我国の花の代表となったという「梅の花」での受難者がいた。平安中期の学問の家から出て、学才、文才によって右大臣(うだいじん)にまでなったものの、左大臣藤原時平(ふじわら・ときひら)の悪巧みにより、突如として大宰府に左遷され、二年後にその地で亡くなった菅原道真(すがわら・みちざね)だ。

 

『拾遺和歌集』に、
東風(こち)吹かば にほひおこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな

 

 という有名な一句がある。その後、落雷火事、また時平の変死などが相次ぎ、道長の崇(たたり)りとされ、朝廷では罪を取り消して復官させ、さらに正一位太政大臣を追贈したという。よほど恐れられたのだろう。
 

 

 道真の梅好きはこの人の学問と関りがあるかもしれないらしい。詩文集『菅家文草』によく知られた七言絶句「梅花」があるそうだ。

 

宣風坊(せんぷうぼう)の北  新に植ゑたる処
仁寿殿(じんじゅでん)の西  内宴の時
人は是(こ)同じき人        梅は異なる樹
知んぬ花のみ独り笑みて   我は悲しびの多きことを

 

 道真を天神として祀(まつ)る京都北野天満宮九州大宰府天満宮が梅の名所なのは、道真の生前の梅好きに因むそうだ。

 また「こちふかば」の一首はこの歌に感じた梅の木が配所まで飛んで伝わったとの飛び梅伝説を生んだという。

 『古今和歌集』以後、花といえば桜に取って代わられた梅なのだが、近世の園芸ブームに乗って、俳諧では梅の人気は桜に劣ることはないそうだ。
 

 

 引用本『季語百話』の著者、高橋睦郎氏によれば、キクとウメは、中国伝来の日本としては始めての花であり、発音が当時の中国の発音と全く同じだという。それまでの日本では花をめでるという習慣がなかったそうだが、ウメとキクから始まったと記されている。

 

引用本:『季語百話』高橋睦郎著 中公新書 2011年
 

 

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(327)堪え難きを堪え・・・(鈴木貫太郎自伝より)

2012/03/22 15:41

 

  

 

(327)堪えがたきを堪え・・・(鈴木貫太郎自伝より)

 

鈴木貫太郎(すずき・かんたろう:1868~1948)大阪府生れ

 海軍軍人、政治家。日清・日露戦争に参戦、後ドイツに駐在。二・二六事件の際には、襲われて重傷を負う。戦争末期の昭和20年4月に首相に就任し、ポツダム宣言を受諾、戦争終結に尽力した。

 

 御前会議には会議場の議長格のものがあって、それは総理大臣がやることになっているが、これは決して議事に最後の決を与えるものではない。議事進行だけである。だから従来の御前会議というものは、事前に出席者の意見をあらかじめ一致させておいて、御前会議に際しては、一応の甲乙論駁した後、既定の結論に持って行き、満場一致を見てから陛下のご裁可を仰ぐことになっておって、会議は一種の儀式といってもよいくらいであった。
 

 それであるから、よし陛下は会議の決議について、心中ご不満があらせられても、ご意見を申されるということはなかった

 ところがこの八月九日から十日の午前二時にかけての御前会議においては、出席者の意見が三対三で根本的に対立してしまったのである。しかもいずれも国を憂うるの熱情を持って議論しているのであるから、その緊張した空気は誠に真剣そのものであって、真に御前会議らしい雰囲気を呈したのであった。
 もちろんこうなっては議長が決を採りようがない。一人でも異論があってはご裁可を仰げないのである。

 

 そこで余(私)は、この重大なる事柄を決するには、実に陛下ご自身にお願い申し上げ、国の元首のお立場からご聖断を仰ぐべきと心中強く決するに至ったのである。
 そこで余は、起立し、「議を尽くすことすでに数時間、なお議論はかくの如き有様で議なお決せず、しかも事態は瞬刻をも遅延し得ない状態となっております。かくなる上は誠にもって畏れ多い極みではありますが、これより私が御前に出て、思召しをお伺いし、聖慮をもって、本会議の決定と致したいと存じます」と述べ、玉座近く進み出でて、うやうやしくご聖慮のほどをお伺い申し上げたのである。
 

 陛下は深更から数時間の会議にもかかわらず、終始ご熱心に討論に耳を傾けさせられておられたのであるが、余のお伺いにたいして、深く頷かれ、余に自席に戻るようにご指示遊ばされてから、おもむろに一同を見渡して
もう意見はでつくしたか・・・・・・
と仰せられた。一同は沈黙のうちに頭を深くたれて、陛下の次のお言葉をお待ち申し上げたのである。

 「それでは、自分が意見をいうが、自分は外務大臣の意見に賛成する」
 と仰せられた。ご聖断は下ったのである。しかし陛下にはさらにお言葉を続けられ
「おのおのの意見はそれぞれみなもっとものことと思う、だが自分が外務大臣の意見に賛成する理由は・・・・・・」
 と仰せられ、現下の情勢についてお諭しの言葉を述べられたのである。
 それは誠に理を極め、曲を正す、正鵠なご認識によるお諭しのお言葉であり、いかに陛下が平素から正しく戦局をご認識あられたかが拝察できるご論旨であった。一同はただ声なく粛然と襟を正したのである。

 

 かくて未曾有のご聖断は下り、一同は宮中を退出して、その日の午前七時、余は連合各国にたいしポツダム宣言受諾の用意ある旨を打電せしめた
 もちろんこの通告に対しては、ポツダム共同宣言の条項中には、天皇の国家統治の大権を変更する要求を含まないものと諒解するという旨を述べ、なおこの諒解事項を連合各国においても確認ありたき旨を申し送ったのである。

 

最終の御前会議

 この我が方の通告に対して連合国側からの正式回答は八月十三日朝到着した。
 この正式回答によると、
 第一に我が天皇および政府の国家統治権は、ポツダム宣言の受諾に関して連合国最高司令官の制限の下に置かるべき旨を延べ、次にポツダム宣言受諾直後、我が天皇および政府がなすべき事項を命じ、第三に日本の究極の政治の形態は日本国民の自由に表現せられたる意志に基づいて定められるべき旨が載せられてあった。

 ただちに閣議が開かれ、この正式回答をめぐって論議を行ったのであるが、余としてはもちろん受諾に決すべき腹であったが、閣僚の中で三人の大臣は、この回答に満足して戦争を終結に導いた場合には、国体の護持は困難となり、将来大混乱を来たし、光輝ある歴史を汚すに至るとして、この際むしろ玉砕しても徹底抗戦すべしと主張して、またまた一大困難が発生するに至った。問題は第三項の解釈にあったのである。
 そしてもう一度連合国側にこの点を訊し(尋ねること)明瞭にしておくべきだという議論が行われた。
 

 これに対して、東郷外相は、連合国側の緊迫した内部事情を察するに、このうえ新たな回答を求めることはついに終戦への最後の機会を失うものであるとして絶対反対を唱えられたのである。
 余もまったく東郷外相の意見に同感であった。しかし、国内の世論はようやく、この和平論を中心として新しい混乱に突入しそうな様相を示してきた。一部強硬論者と、軍の中堅将校の間には不穏な空気が満ちあふれ始めていた。
 だが、この際こそ、もっとも肝要な瞬間であり、あらゆる障害に動ずることなく、陛下の思し召しどおりに戦争を終局に導かねばならないと、余は平素よりいっそう悠然と大局に眼を注ぐことに務めた。(中略)
 

 正式回答の第三項にしても、究極の日本の政体を決するには、結局わが国民である。さすれば何もこれを外国側に保証を求めずとも自主的に解決し得ることであり、かかる事で千載一隅の機会を逸し、血迷って、国家を滅亡のどん底に追いやってしまえば、結局何物も残らないことになる。この点をしっかり見極むべきだと、各閣僚とも話し合ったのである。

 混沌たる二十四時間の間に連合国側の放送が、余の耳にも伝えられてきた。我が方の回答遅延にたいして、その不誠実さを詰(なじ)り、新たなる行動が起こされるのではないかという予感である。
 

 余を取り巻く周囲の者にも、主戦論あり和平論あり、その帰趨(きすう)はちょっと逆賭(ぎゃくと:先を見通すこと)し難いものがあるように思えたが、余は厳然として陛下の再度のご聖断を確信しておったのである。
 果たして八月十四日、宮中より先の御前会議に列した者および全閣僚にたいして再度のお召しがあった。

 余等は衣服を取りかえる暇もなく、急遽参内した。
 戦争に関して最終と思われる午前会議が厳(おごそか)に開催せられたのである。
 まず議論においては、両総長、陸軍大臣が交々(こもごも)立って声涙下る意見の開陳を行ったのである。連合国の回答に満足せず、かかる不明瞭なままでの終戦ならば、むしろ国家百年のために玉砕戦法に出て死中に活路を求めようとの意見であった。
 

 かくて三名の意見開陳後、陛下には最後の断を下し給うたのである。
「自分の意見は去る九日の会議に示したところとなんら変わらない。先方の回答もあれで満足してよいと思う
と仰せられ、合わせて、その理由とするところは、前回の御前会議で述べさられたご趣旨とご同様、世界平和を念慮され、皇国悠久の存続のため終戦の必要を述べさせられ、純白のお手袋にてお眼鏡をお拭き遊ばされていたが、陛下は一段と声を励まされ、
「このような状態において戦争を終結することについては、さぞ、皇軍将兵、戦没者、その遺家族、戦災者らの心中はいかがであろうと思えば胸奥の張り裂くる心地がする。しかも時運の赴くところいかんともなし難い。よってわれらは耐え難きを堪え忍び難きを忍び・・・・・・」
と仰せられたかと思うと、玉音(お声)は暫し途切れたのである。仰ぎ見れば、おお、おいたわしや陛下はお泣き遊ばされているではないか・・・・・・。
 列席者一同は今度の再度のご聖断を給わるについては非常に緊張し、言う者も聞く者も涙で終始したのであるが、この陛下の
堪え難きを堪え・・・・・・
の玉音を拝するや、たまり兼ねた一同は御前もはばからずドット泣き伏したのである。なかには身をもだえ号泣するものもあったのである・・・・・・。

 誠にこの光景は、またこの心懐は敗者のみの知る、しかも底深い愛情によって結ばれ、強い明日への希望を抱く者のみの知る万感迫る思いであった。終戦のご詔書はこの最後のご聖断の折、陛下より給わった有難きお言葉を主に作られたものであるから、どうか諸君はかの終戦の詔書を再読されることを希望する。

 

引用図書:『自伝 鈴木貫太郎』人間の記録24 日本図書センター刊 1997年
     328ページから333ページ。括弧内は筆者。

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(326)『無声戦争日記』

2012/03/14 16:31

 

  

 

326)『無声戦争日記』

 

 徳川無声(1894~1971)はもと無声映画の活動弁士でしたが、異能多才の人で、優れた映画俳優で、声優、講演家、漫談家、随筆家、俳人、歌人であり、昭和十四年上期の直木賞候補にもなったほどの多才ぶりを発揮した人でした。
 

 溢れんばかりの才能が遺憾なく発揮されたのが『無声戦争日記』だとされます。開戦から敗戦にいたる千二百ページの長大な手記は、戦争日々の世相見聞録であり、その他ほとんどの項目を網羅した貴重な記録となっているとか。食い物に関心がある向きには、戦中の食生活が克明に記してあり、「食えない」つまり「本当に食料がない」とはどんなものかをリアルに教えてくれます。

 この人は別に食道楽ではなく、一食抜いても古書や骨董に財布をはたく人だったそうですが、そんな明治男でも、猛然と腹が減ると、三度のメシをこまごまと書き記したくなるようで、「銃後の大東亜戦争」は、飢餓との壮絶な戦いでもあったと理解できます。
 
 この日記は、昭和十六年十二月八日(月 晴 温)に始まります。
 山田君が、対英米宣戦のニュースを知らせてくれる。そら来た、果たして来た。東條首相の全国民に告ぐる放送を聴く。言葉が難しすぎてどうかと思うが、とにかく歴史的の放送。身体がキューッとなる感じ。マレー沖海戦勝利、香港攻略と朗報続くこの年の大晦日、四十七歳の彼は次を詠んでいる、

<除夜の鐘鳴らす地球は廻りをり>

 

 十七年初春。マニラ占領、シンガポール占領と大本営発表は威勢がいいが、ガソリンの使用が禁止された街には、黒煙と火花を撒き散らす木炭自動車やバスが走り回っていて、物資不足は誰の目にも明らかだ。
《日劇裏のスエヒロで一円也のランチを喰ってみる。イカのヌルヌルかき揚げ、――今日は(食肉販売と肉料理の提供を禁じた)肉ナシ・デーである》(1.8)

 四月、B25本土初空襲。六月、ミッドウェー海戦敗北。米軍ガダルカナル上陸。

《明後日から野菜が切符制になる》
 妻と四人の子供を飢えさせぬため、東京・杉並にある百七十坪の自宅の庭に、彼はせっせと野菜の種を蒔く。

 

《庭に出て、赤シソの実を二房とってくる。納豆には韮を入れて掻き混ぜ、味噌汁にはシソの実を入れる。事変前なら問題にならなかった食物が、この頃旨くなったという事、私は味覚の堕落と思わない。味覚が広く、深く、鋭くなったのだと思う》(10・2)

 翌十八年。配給の玄米を一升瓶に入れ、竹棒でついて糠を取る無声の心は冴えない。
《玄米の粥を喰いつつ、ふと「高邁なる精神」というものを考える。玄米のお粥ばかり食べていてコーマイなる精神が養えるだろうか》

《大阪のホテルは、金属回収で、枕元の銀色大魔法瓶は有田焼の土瓶と替わり洋服ダンスのネクタイ懸けの金具もはずされていた。夕食には鯨のビフテキ》(3・11)

《春の夜の酒なき夜の一人寝の腹鳴り冴えてわびしかりけり》(翌12)

 

 四月、連合艦隊司令長官山本五十六戦死。五月、アッツ島玉砕。九月、イタリア降伏。
《動物園のライオンはじめ、猛獣が、最も懇切なる方法によって処分された、とある。可哀想でならない》(9・3)

《先月二十八日配給のお米が、まだ配給されない。この分では、まだまだ数日は配給あるまいという見通し。いよいよ油断のならぬ事になったものだ》(10・1)

 だが、空襲の恐怖を未だ知らぬ「帝都の民草」は、飢えてこそいるものの、切迫感はまるでない。
《京王電車の大した混みよう。競馬行きの客で息も止まりそう。喰うか喰われるかの大戦争をやっているというのに、この連中はまあ一体、いかなる所存なのか》(同30)

 

《静岡駅では芋弁を売っていた。若い、物優しい海軍士官が、それを朝食に物静かに食べていた。売っているのは芋弁だけなのであるから、これを喰うより仕方がない訳でもある》(11・16)
 

 「昭和十六年頃から、お茶の中にうどんの細かく切ったをいれた混麺弁当とか、じゃがいもの賽の目切にしたのをいれた混米弁当とかなどが出始め、そのうち、黒っぽいパンや、お芋そのものの代用弁当が出されたりした」(汽車弁文化史)

 

《色々雑談、結局食い物の話。大船撮影所のトンカツが、かって如何に旨かったかという話を高峰三枝子嬢が、目を輝かしてするのであるが、「その美味さ!」と全身全霊をもっていい、眉を美しくひそめる。衣装屋の老人まで仲間入りして、その昔蒲田では夜間撮影があるときは、丼、天丼、親子丼など、喰いきれないほど出したという話を精魂こめてする。一同の溜め息の如し》(12・1)

 

 十二月九日、出征する学徒兵を東京駅のホームで偶然見送った時の一句。
《枯野走る学徒出陣列車かな》
 戦況いよいよ厳しい。

 

 十九年一月、東京・名古屋に初の疎開令。ビアホールなどに雑炊食堂開設。

 

《ある家に一人の見知らぬ男が来て「酒が一斗ほどある、早く片づけないと規則でよそに持っていかれる、一升瓶を十本すぐ用意してください、きれいに掃除してね。いえ、お金はお酒を持って来た時に頂きます」というので、細君大いに喜び、ていねいに瓶を洗ってその男に渡すと、それっきりになってしまった。つまり、瓶の詐欺だったのである》(同13)
 

 そんなことを記す無声氏も当然、ヤミ物資に手を出していて、二月某日の夕食は牛すき焼き、飯三杯と豪華版だが、そんな大ご馳走は稀の稀である。

 

 三月、新聞夕刊廃止。四月、特急、寝台車、食堂車全廃。七月サイパン陥落

 

《今朝始めて大豆カス入飯美味。配給海苔香高、配給白菜漬け味良し、青菜味噌汁結構。雪コンコンヲ眺メツ有難キ朝ノ飯》(3・5)

 

《今日の配給の芋は、一人につき一コの割である。そしてそれが四日分の野菜だという。一人が一つの里芋を四つ割りにして、一日分だ。これでは買出し部隊の禁止を叫んでもダメである。東條首相が辞するという噂がもっぱらだが、或いは食糧問題でそんなことになるんではないか、という気がする》(同29)

 

《獅子文六氏来訪。私が調合するのをニヤニヤ笑って注目している。私は自信ありげに、まず酒精を一杯、次にリンゴジュース一杯、褐色ザラメ少々、これに夏蜜柑のしぼり汁を加え。湯を注いでコップ一杯にかき回す。相手は仏蘭西仕込みの小言幸兵衛だから、何というかといささか心配していると、「うん、これは好い、今度は僕もこいつを手に入れよう」と御満足の態である。日本薬局方ウィスキー》(同22)

 

 七月、サイパン島陥落、東條首相退陣。八月、砂糖の配給中止。十月、神風特別攻撃隊出撃。

 

《ロッパとデコ(高峰秀子)と私の三人で食物の話。私は甘露入りの氷水にアンパンを千切って入れて食いたいという。ロッパは震災前に喰った焼ソバの話をする。この焼ソバを一年三百六十五日食わして貰えるなら、殺されても構わない、と彼はいう。デコはすしを喰いたいという。デコ曰く「あたし不幸だワ、物心ついた時は戦争が始まって、ウマいものをあんまり知らないんですもの」と。だから幸福ともいえる》(同30)

 

十一月、B29東京初空襲
《夕食は甘藷二本――丸々とした水芋である。皮の所々が病気になっている――、それをナイフで削りながら喰う。割合に甘くて結構、とはいえやはり情けない》(11・21)
《火の消えし楽屋に寒し芋の皮》(同28)

 

そして翌二十年元旦、彼は詠む。
《年賀状一本もなき初日かな》

 

《私は庭を見回し、八ッ手の葉は喰えないかな、という。今年こそ、本腰になって、庭の産物をつくらねばなるまい》(同7)

 

 三月、東京大空襲。四月、米軍沖縄上陸。五月、ドイツ降伏。六月、学校授業停止

 

《チューリップの根を、葱坊主と一緒にして、精進揚げにする。これがまた珍味である。チューリップはシャキシャキとほのかに苦味があり、葱坊主は軟らかく甘味がある》(4・29)

 

《先月の代用食配給は十八日分もあったという。放送を聴いていると、今後ますます代用食が幅をきかすことになるらしい、芋づるの粉だの、桑葉の粉だのやたらに粉を食わされるらしい。いったい、鈴木(貫太郎)首相その他日本の指導者達は、いかなる見透しのもとに戦争を続けているのか》(7・3)

 

《牛鍋の煮詰まるや甚だ速し、煮始めの緩やかなるに反し、いったん煮詰まるとなるや、アリャリャと思う間もなし。この頃の日本の有様を見るに、この牛鍋の煮詰まりを想わせらるること切なり。特攻隊の水を注ぎ、何時までこの煮詰まりを防ぎ得るや》(同20)

 

《知人の談「私も二円くらいだったら買って喰おうかと思ったんですが、十円だっていうんで、驚いて止しちゃいました」と、これは、新宿駅で密かに売っている、握り飯のことである。握り飯一個十円也! その闇屋は、蜜柑箱に沢山入れて、売っていたそうだが、百個で千円の商いをする訳だ。この日私は、一時間にわたる講演をして、謝礼のほかに、御昼食代金二十円を受領したが、なるほどこれで握り飯二コ喰える次第だ》(同24)

 

 八月六日、広島に原爆投下。九日、ソ連参戦。長崎に原爆投下。十五日(晴 暑)正午、玉音放送。
 「朕深ク世界ノ体勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ」の大詔に涙した彼は、自室にこもってひたすら眠る。空襲警報のサイレンが鳴ると原爆の放射能よけにレイン・コートを慌てて羽織り、焼夷弾と機銃掃射におびえる日はついに去ったのだ。

 

《午後二階で昼寝、トロリトロリと異様なる眠り。省電は常の如く通り、郵便もつつがなく配達サル。十三日発の葉書が今日着くなど案外に速し》(8・16)

 

《二階で二時間半昼寝、横になるや引きずり込まれる如く眠りに入る。夕食肉入りうどん三杯、肉いかれて材木の如し。(四女)明子コオロギのごとく笑っているがきっかけにて、家内中大口をあけて笑う》(同18)

 

 徹底抗戦を叫ぶ厚木基地の戦闘機が上空を舞うが、徳川無声の戦争はとにかく終わった。しかし焼け跡闇市時代を迎えて日本人の食料不足はますます深刻となる。

 

引用図書:『賢者の食欲』里見真三 文藝春秋

 

 

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(325)すべて屋台から始まった

2012/03/05 17:20

 

  

 

(325)すべて屋台から始まった

 

 和食が世界中で盛んだそうです。和食といっても、テンプラ、蕎麦、ウナギ蒲焼、鮨などだけかというと、そんなことはなく明治以後に入ってきた洋食にも工夫を加え、トンカツやら牡蠣フライ、カレーライス、その他イロイロありまして、「何処から何処までが和食ばとですか?」などと聞かれても返答に困るのであります。

 そうはいっても「鮨だとか、蕎麦の類」であれば「Oh, It‘s Wa―shoku !」と同意していただくのは難しくないと思うのであります。
 

 皆さまご案内の通り、和食と呼ばれるもののルーツを調べますと、たいていが江戸時代の屋台からでして、もともと下賎と言ってもいい代物でした。職人たちのスナックでありました。現代はビックリするほどの高額の店もありまして、まあ、人件費も高くなりまして高級化したんでしょうね。
 
 蕎麦を例にしますと、あれはもともと救荒食だったんです。「今年はどうも気温がおかしい・・・・・・飢饉かも?」なんて気づいて慌てて蕎麦の種をまく。確か七十五日ほどで食べられたはずで助かったんです。蕎麦は「痩せた寒冷地」を好みますから、ほっておけば刈り取りができるようになる。で、そば粉に熱湯でも加え、かき回して口に入れておりました。そう、奈良時代からの非常食だった。
 江戸の街中にソバ店が出現し、加えて天秤棒で担いで行商をする「夜鳴き蕎麦」、または「夜鷹ソバ」とか「風鈴そば」とも言いましたが、なにせその数が多かった。

 

 鮨にしましても、現代の握りずしは大東亜戦争以後の流行でして、これも、もとは大したものではなく、江戸時代も小僧さんだとチョッと無理かもしれませんが、せいぜい手代とか江戸職人たちのスナックなのでありました。たいていは屋台でして立ったまま食べる。華屋与平衛サンなんかが高級なのを創りましたが、頃は天保八年の頃、水野忠邦さんの「天保の改革」に引っかかりまして、「ねぇ、ずいぶん贅沢じゃない?」と行政指導が入り「手鎖の刑」処分などにされ、以後は安くなったとか。
 

 現代は危険です。銀座の裏のほうで目立たぬように営業している鮨店など、七人も入れば一杯になるような店、チョッと呑んだりしますと三万円ほどはご覚悟の程。我が国の文化というのは、何かありますとドンドン奥が深くなっていく。いえ、必要があって深くなるのなら、それはそれなんですが、必要がなくても深くなっちまうんであります。奥義をきわめるといってもチョッと無理があったりします。
 
 今回の引用本をまとめられた里見真三さんの『賢者の食欲』という一冊は、その辺りが面白いんです。「蕎麦の奥義を窮めるにはどぎゃんしたらよかとですか?」なんて真面目に調べた本が二冊も紹介されております。
 「蕎麦の奥義」といっても皆さんよくご承知なんで省略。蕎麦を食うときは「セイロかせいぜいザル蕎麦にしておけ」くらいでしょうか。それ以外だと野暮なんだとか

 で、蕎麦にはワサビがついてきますが、どうやってワサビを食うのが奥義を窮めた人物か? どう蕎麦屋の親爺に尊敬されるか?この辺りが大事なんですね。
 
 里見真三さんがソバ有名人を集めておりますのでご紹介まで。
 目立つのが片倉康夫さんです。昭和初年に東京は新宿駅近くに蕎麦屋を構え、大森を経由して昭和29年に足利市で蕎麦屋【一茶庵】を再開、西神田などに支店を開き、小難しい蕎麦の奥義を書いた書籍を複数冊出版します。つまり理論武装した。文句は言わせないぞ・・・・・・

 こういうのは先に権威となり、宗家あるいは本家を名乗るのが一番。後は弟子たちが稼いでくれて楽隠居です。で、最後のほうにワサビの正しい使い方なんてのが記してあります。
 各名店の主人の言葉が紹介されておりまして、
 1.「汁に入れず、食べる分だけ蕎麦につける」 

   (東京・平井「無窮庵増音」)
 2.「つゆに入れない方が、おいしく召し上がれ  

   ます。ワサビを入れるとツユが甘くなります」

   (長野・松本「もとき」)
 3.「ワサビを蕎麦につける人を見かけますが、

   昔は薬味は汁に入れたもんです」(東京・雷 

   門「並木藪蕎麦」)
 4.「汁に溶かしたほうが本ワサビの香りが立ち

   ます」(東京・虎ノ門「巴町砂場」)
 5.「汁に溶かしてかき回してください」(長野・木

   曾「くるまや本店」)
 6.「蕎麦の甘味を消してしまいますから、
ワサ

   ビは出しません」(東京・武蔵野「上杉」)
 7.「薬味は猪口に入れず、直接口に含んだほ

   うがいい」(東京・田無「ほしの」)

 どうでしょうか? 一流店の店主らが違ったことをいっておりまして、わが日本文化の“融通無碍(ゆうずうむげ)”“曖昧模糊(あいまいもこ)”な性格をよく現していないだろうか?
 筆者に言わせていただくならば、「どーでもいい、のであります」

 ただ、本物のワサビ、それもチャントした二年もの以上のワサビを使うといいんじゃないでしょうか。普通はワサビに大根おろしを混ぜたものが多いですし、自分でワサビをおろさせる時は一見ワサビのようですが、安い畑ワサビ(細い)が多いんですよね。それとソバツユのチャントしたのを。「市販の瓶詰めそば汁」のほうがよほど旨いと思いますけど、まあ、好き好きですからどうでもいいんですが。ああ、「鬼の平蔵」の著者池波正太郎さんは「七味唐辛子振りかけたほうが旨いよ?」などと。

 

 ついでですから、「鮨」の正しい食い方についてもチョッと触れておきます。これは永瀬牙之輔さんという、昭和の初めの猛烈にうるさい方ですけど、志賀直哉先生の『小僧の神様』にこんな一節があるそうです。舞台は大正。小僧の仙吉に鮨を食わせた貴族院議員Aと同僚Bの会話だとかです。
 「屋台で見ていると、皆こういう手つきをして、魚のほうを下にして一ペンに口に放り込むが、あれが通なのかい」
「まあ、まぐろは大概ああして食うようだ」
「なぜ魚のほうを下にするのだろう」
「つまり魚が悪かった場合、舌へヒリリと来るのがすぐ知れるからなんだ」
「それを聞くとBの通も少し怪しいもんだな」
 等と、小粋で正しい摘(つま)みかたについての甲論乙駁は、昭和三十年代まで間欠的に続いたそうであります。

 

 で、この永瀬さん、つまみ方については大略して四種類あると述べ、ナント斯界の権威に鮨を摘まませ、手順を分解写真に撮らせ、“通”たる者の作法を紹介しているとか。面倒なので省略します。
 明治の頃は屋台で立ち食いでしたから、醤油はどんぶりに入っており、通天閣近くの串カツみたいに、「衛生のため、ソースの二度漬けお断り」でやっていたんです。
 鮨は、摘むよりチャント箸を使ったほうが衛生的じゃないかな?といった話で、おそまつでした。

 

 それと昨今の回らない鮨屋さんは、チョッと高価すぎますから、筆者は迷わず回転寿司へ。もっというと、江戸前鮨で最も旨いとされたのは海苔巻きなんです。だから【京樽】みたいなところで折り詰めを買い込みまして、アナゴなんかも混ぜてもらい、わが家で熱燗を楽しんでおります。

 筆者は味オンチでして・・・・・・でも、味はそれほど変わりませんって・・・・・・。
 

 

引用図書:『賢者の食欲』里見真三著 文藝春秋

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(324)森鷗外の闘争心と北里柴三郎

2012/02/23 17:34

 

 

 

(324)森鷗外の闘争心と北里柴三郎

 

 森鷗外(1862~1922)ほど、嫉妬に敏感だった男もいないだろうと『嫉妬の世界史』の著者である山内昌之氏がご著書に記しています。
 「明治の文壇で名声をかちえた鷗外は、軍医という少し変わった職業の世界で、いつも他人の視線を意識しており、加えて帝国陸軍という官僚たちの世界でも、必ず疎まれた。たとえ軍医総監になっても中将にあたる地位よりも上には行かない仕組みだから、軍医総監で最高位であり、(鷗外の地位は、)逆立ちしても大将にはなれなかった」とか。官僚であれば本省の次官とか軍務局長といった要職に就きたい所でしょうが、そうはいかなかったらしい。
 
 鷗外は限られたポストをめぐって同期前後の人間がしのぎを削る過酷な競争社会にいたそうで、陸軍に任官してから、同期の友人たちであっても同じポストを狙う競争相手と意識せざるを得ない状態だったらしい。
 イロイロあって鷗外は相当に妬まれたらしいのですが、反対に鷗外の他人に対する嫉妬心も相当に旺盛だったとか。他人が自分の悪口を言っているのではないか?と気にするのは当たり前でしょうが、鷗外を知ると誰もが「これは俺のことをいってるのか?」と少々気になるといいます。

 

 鷗外は、人の噂や陰口を酷く気にする性分だった。評判に人一倍敏感であり、いつも自分が他人の悪口や、陰口や冷笑や攻撃にさらされている?と思いがちで、こういった人柄というか傾向は誰にでもあるのが自然ですが、優秀人材ほど強い傾向があるとか
 なるほど噂などに平静でいられるタイプの人は少ないもの。人間なら誰だって多少は気になりますが、鷗外はそれが特に激しかったらしい。この人の文学や医事の問題における戦闘的な姿勢や論争の激しさには、鷗外なりの理由があったというんですね(大谷晃一『鷗外、屈辱に死す』)

 

 どうも明治期の頭脳優秀者にはこういった性格とても強かったらしいのであります。

 さて、こうした明治期の日本に、大変に優れた医学者が輩出しました。その中で最も有名なのが北里柴三郎(1853~1931)ではないでしょうか。森鷗外も実に頭脳優秀であり、現・東大医学部に年齢を12歳だかで偽って入学、十九歳で卒業していますが、(制度が違うとしてもこの記録はいまだに破られていないとか)また、北里柴三郎は現・東大医学部を卒業し、ドイツに留学してコッホに師事、破傷風菌の純粋培養と、血清療法に成功し世界を驚愕させます。

 また共同研究者のベーリングとともにこれらの知識をジフテリアに治療に使い成功し、再び世界を驚かせました。これら血清治療を、狂犬病インフルエンザ赤痢、発疹チフスなどに応用、そして1892年(明治23年)に帰朝し「日本細菌学の父」と呼ばれます。留意して頂きたいのは明治維新のわずか23年後という事実です。
 

 北里の帰国にあたり、世界の医学界・研究界は北里柴三郎が欲しく、各国が破格の条件を提示していました(アメリカなどは現代の価格で年間研究費44億円を申し出た)が、「日本の医学を発展させたい」という北里の希望が強く、いったん帰国してから香港へ行き、このときにペスト菌を発見、またまた世界を驚かせます。(後に一部訂正)当然第一回ノーベル生理・医学賞の候補となりました。
 

 ついで、同じようなコースをたどり志賀潔(1871~1957)が赤痢菌を発見します。当時の風潮として、不明な病気を探っていくと必ず細菌が発見されるといったことがありました。

 このためか、チョッと先輩の緒方正規(おがた・まさのり)が日本独自の「脚気」の原因として「脚気菌」を発見したと公表します。

 確かドイツで、北里柴三郎は「そんな馬鹿な!」とこれを激しく批判します。今でこそ「脚気(かっけ)」という病気はビタミンB1が原因と判明していますが、何せ当時のことであり、しかもほぼ全員が東大医学部・卒業生だったこともあり、「批判は許さず!」との風潮がありました。つまり現・東京大学医学部と、北里柴三郎とが激しい闘争を繰り広げることなりました。最も強く「脚気菌」説を支持していた一人が森鷗外であったといわれます。医学者としてはもちろんアウトです。(阿川弘之説)
 

 あまりに酷い状態となり、慶応義塾を設立した「福沢諭吉」が間に立ち「日本伝染病研究所」を設立、コッホ、パスツール研究所とならび世界の三大細菌学研究所となりまして、北里が初代所長。また日本医師会が設立され、北里は「日本医師会の初代会長」となります。のちに北里は福沢に謝意を表すため慶応義塾に医学部を設立し、自分が初代医学部長となっています。さすがに今はそんなことはないでしょうが、東大医学部と慶応義塾大医学部はあまり仲が良くなかったとか。

 

 さて、森鷗外を初め、当時の優秀な人材の頑固さを考えてみてください。もはや学問的な正確さよりも、面子というか何というか、問題の本質はともかく、そういった方向に走っていきました。このため日露戦争時には陸軍兵士の間に25万人の「脚気患者」が発生し、うち三万名が病で死亡しています。
 

 北里柴三郎は第一回ノーベル生理学・医学賞候補となっていましたが、ノーベル賞委員会もあまりに激しい日本医学界の激闘に驚き、北里を避け、共同研究者のベーリングのみに与えたとの説が有力です。

 

 その他にもビタミンを発見した鈴木梅太郎、志賀潔、秦佐八郎、その他多くの候補者がおりますが、賞が与えられなかったのは「人種差別の結果だ」とされがちですが、差別もあったとは思うのですが、どうもそれだけではなかったようで、森鷗外の人柄を知るたびに、何かしら「目的を忘れて面子を優先させてしまう風潮というものが、現在の日本にも残っているような気がしてならないのです。もちろん優秀な人材の頑固さの話であり、平成の政治家の面子については単なる「無知の涙」じゃなかった「無知の悲しみ」と感じておりますが。

 

引用図書:『嫉妬の世界史』山内昌之著 新潮新書
 

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(323)知足の人・保科正之

2012/01/29 17:34

 

  

 

(323)知足の人・保科正之

 

 世界史を眺めると、大きな業績をあげ、あるいは成果をあげて著名になりながらも、嫉妬を受けない人物などいないはずである。ところがいましたね、嫉妬を受けない人が。奇跡的ですが何とお膝元の日本におりました。
 その人物は保科正之(ほしな・まさゆき:1611~72)。徳川三代将軍の家光の腹違いの弟なのに偉ぶらない。ということは恐妻家の二代将軍の徳川秀忠も一度は浮気をしたんですね。

 なにしろ神君家康公の孫なのに、人徳に優れ、『老子道徳経』に書かれている「知足」の人でありました。

 

 「みずから勝つ者は強く、足るを知る者は富む」というのは、克己心と知足の精神を説いた教えでありますが、保科正之は、武力による強さやマネーや石高などの豊かさをまったく誇らなかった。自分に満足し、引きまわしてくれた周辺の人々に感謝の心を忘れなかったといいます。

 

 徳川二代将軍、秀忠の子であったにもかかわらず、嫉妬に狂った正室の於江与(おえよ)から刺客を差し向けられたり、母親のお静(志津)さんと危険な目にあっていたそうですが、助ける人も多かった。武田信玄の娘などの助力を受け、武田家の遺臣だった信州の高遠城主、保科正光の養子となります。頭脳明晰、高潔な尋常ならぬ人柄を見抜いた養父は、自分の養子に対し終生「殿」と敬称をつけて呼んだそうです。まあ子供のときから周囲に尊敬されたんでしょうね。
 

 高遠(たかとう)で母や他の女性たちの愛情と慈しみの中で育った正之は、人への感謝を忘れない謙虚な人間に育ち、奥ゆかしい人格を作り上げ、やがてこの人物を最高権力者の座に押し上げていく要因となります。他人から功を妬まれない稀有の政治家に成長したんですね。
 
 実弟の駿河大納言忠長を自害に追い込んだ三代将軍・家光は異母弟である正之の存在を知ったとき、心境は複雑だったそうです。しかし、いかに「徳川家安泰」のためとはいえ、同腹の弟を自害させた家光は、そこはかとない寂寥感に襲われていたに違いない。
 徳川政権には、家康の実子たちの血を引く御三家が睨みをきかせていたものの、それだけじゃあ心が満たされません。家光としては幼君の家綱(四代将軍)を補佐する信頼に足る人物が欲しいところでした。

 

 野心家だった忠長とは違い、嫉妬心などとは無縁、穏健な性格、かつ己の分を知る正之は、幼君輔弼(ほひつ)の役目にはぴったりだったにちがいない。次第に正之を深く知るようになった家光は、無欲な正之を肉親としていとおしく思うようになったそうであります。
 家光に引き立てられ、初代会津藩主として二十三万石(他に五万石のおまけつき)の大封を得た後も、正之には狎れるということがなく、将軍の実弟でありながら、君臣の分(君主と臣下の守るべき関係)を忘れない点が際立っていたそうです。

 現代の企業でも、同属経営の場合にオーナー社長の傍らに兄弟や肉親がいる場合が多いですが、けじめがないと互いの競争心とやっかみが家や会社を破滅に追い込みかねないですね。ギャンブルに狂ったりイロイロあります。
 

 保科正之の場合は、自分が幕閣になった後も、大老や老中を務める譜代大名のエリートたち、つまり「創業の功臣」に対しても将軍の弟として、あるいは幼君の叔父として振舞うことが全くなかったという。まったく奢り高ぶらなかったため、周囲のほうが気を使って、そんな周囲に正之は「気を使わせて申し訳ない」といった様子で、次第に幕府のエリートたちが正之の人柄と能力に心服するようになったそうであります。

 

時代に先駆けた善政

 将軍はもちろん、重役からも妬まれなかった正之は、天性の素質で組織の何たるかを会得した稀有の人物といっていいらしい。周囲の敬愛を一身に集めてしまった正之に、将軍家光が臨終のとき「託孤の遺命」を下しています。つまり、次の将軍となる幼児を託されたんですね。実際に家綱が四代将軍をついでから国元(会津)はもとより、しばらくは藩邸にも帰ることなく、千代田の城中で一心不乱に執務と将軍補佐の任にあたったそうです。
 
 正之の補育のよろしきを得て、四代将軍の家綱は穏和ながら誠にバランスの取れた為政者として成長して行ったそうです。もし、家綱がもう少し長生きをしていれば、どこか偏執狂じみた五代将軍の綱吉は、歴史の表舞台に登場しなかったかもしれないそうです。
 正之たちが努力した改革が、徳川中期の日本政治に余裕と潤いを与えていたはずだろうと考えられているとか。
 

 生類憐みの令という稀代の悪法で人心を惑わし、母親の桂昌院や、柳沢吉保や隆光大僧正胡乱な(うろん)な人物を登用した綱吉の側用人(そばようにん)政治と、保科正之を中心とした家綱の合議政治を比較すると、専門家たちは、なおのことその感が深くなるそうであります。

 

 徳川家綱政権の善政とされる業績を書いておきます。
① 以前はあらかじめ養子を立てておかないと急病などで藩主が死亡した場合、急に養子をたてて家督を継がせることを「末期養子」として厳しく禁じていましたが、これを緩和したこと
② 大名の人質を置く制度の廃止 ③玉川上水開作の建議(世界最高水準の水道設備) ④明暦の大火直後に江戸復興計画を立案し首都整備を迅速に実行したこと(議事録を残さないなんてズルイ手は使いませんでした・・・・・・)隅田川に橋を増やした ⑤江戸城天守の再建を無用の長物として許さなかった ⑥殉死の禁止

以上枚挙に遑(いとま)がありませんが、

 その一方で会津藩主としての善政も特筆に価するそうです。

 まず①幕府より先に殉死を禁止した ②年貢米を四割三分に切り下げた ③社倉制度(しゃそうせいど:飢饉への備蓄米・自然災害備蓄)④身分や男女を問わず、九十歳以上のものには終生一日に玄米五合を給付 ⑤間引きの厳禁 ⑥過酷な刑罰の廃止 ⑦「負わせ高」という悪税を廃止、これでかえって自主申告が増え、税収が増大したそうです。いたんですね、こういう人が。

 

引用本:『嫉妬の世界史』山内昌之著 新潮新書 2004年 
      『黒船以前』中村彰彦・山内昌之 中公文庫 2008年

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(322)藤原正彦著『大いなる暗愚』から

2012/01/16 17:52

 

  

 

(322)藤原正彦著『大いなる暗愚』から

 

 国家の品格で著名な藤原正彦氏が週刊新潮に連載している、あの有名な山本夏彦氏による「夏彦の写真コラム」の後をつぎ毎週掲載中のコラムが一冊にまとまった。非常に楽しく拝読したが、そのまま引用というわけにもいかず、全体として筆者が勝手に一冊のポイントを編集してみました。

 「株主至上主義」というのがあるが、もともと会社は従業員と消費者のものであると考える筆者が思わず膝を打った箇所などを引用させていただきます。
 

引用開始
 

モノ作りを滅ぼす株主至上主義

 血の出るような研究開発を怠ったから、石油高騰を機に燃費の悪いGM車は売れなくなった。技術不足を糊塗しつつ売り上げだけは確保しようと、強欲な労組といっしょになって禁じ手ともいえる政治家へのロビー活動に励んだ。

 例えば日本車の自主規制を十数年にわたり続けさせたり、もっとも得意とするピックアップトラックには燃費規制を甘くしたりした。世渡り術でもっていただけだから世界大不況が来なくても破綻は時間の問題であった。

 GMは国有企業となったが再建は難しいはずである。いかに人員を削減しようとも工場を閉じようとも、売るべき商品がないからである。トヨタが二十年以上をかけ、試行錯誤の末にハイブリッドを開発したのと対照的である。
 「株主至上主義」はモノ作りにとって最も大切な技術力、そして魅力ある商品を地道に作り続けるという魂までをも腐蝕する。「株主至上主義」の本場である米英でモノ作りがほぼ壊滅したのを見ればそれは明らかであろう。(2009年7月23日号から)

 

文化人の世渡り術

 終戦後、GHQは「戦前の日本は軍部の支配下で真っ暗だった」という神話をばらまいた。これはあっという間にわが国に定着した。戦後文化人という人々が言いふらしたからだ。戦後民主主義に迎合し、うまく世を渡ったのである。文化人は器用である。
 

 1990年代から「市場原理を徹底すべし」と主張したエコノミストや評論家が大勢いた。何かにつけて規制緩和、官から民へ、小さな政府をいい立てていた。
 なかには「日本はイギリスアイルランドのように資本市場を開放し金融大国になれ。モノ作りから脱却せよ」と亡国的発言をした有名教授もいた。

 2007年になって構造改革を主導したうえ、「日本政府は米国の金融機関を救うために出資しろ」と、郵政改革の本音をもらした経済閣僚経験者もいた。「市場原理を徹底するためには日本の社会や日本人のものの考え方を変えるべし」と恐るべきことをいった有名経済学者もいた。

 やがて市場原理主義はリーマンショックと共に破綻し、手本としたアメリカは今や市場にまかすどころか逆方向、すなわち規制強化、大きな政府、民から官へ、と大わらわである。最大級のGMやAIGさえ国有化した。
 
 形勢悪し、と黙っていた文化人らが「留学中についアメリカにかぶれてしまった」と言い訳をしたり「悪かったのは市場原理主義ではなくリスク管理を怠った経営者だ」とか責任転嫁を唱え始めた。マスコミは日本をミスリードするという滞在を犯したこれらエコノミストに鉄槌を下すどころか、依然と同じように発言の場を与えている。大甘な日本で彼らは今後も弁舌巧みに世を渡りきるだろう。文化人は器用だ。(2009年8月6日号から)

 

UKIYOE
 ローマを歩いていたら浮世絵展が開催されており、歌川広重だった。浮世絵のフランス印象派への強烈な影響についてはよく知られている。とりわけ広重のものは彼らを夢中にさせたらしいが、この理由がこの展覧会でよく分かった。

 ゴッホが模写したという名所江戸百景の「大はしあたけの夕立」は、中学生の頃におそらく歴史の教科書でちらと見た覚えがあるが、よくよく見ると驚くべきものだった。

 橋の上で夕立に逃げまどう旅人たちの絵だが、斜めにたたきつける雨脚が黒や灰色の直線で描き分けられているうえ、それらはよく見ると平行線でない。どっしり描かれた橋桁の「静」が逃げまどう人々や、しのつく雨(激しく降る雨)の「動」と見事な対比をなしている。何もかも発想が奔放である。(中略)
 

 浮世絵をこれほど丹念に見たのは初めてだった。とにかくお話にならないような大胆な構図、そして、動と静、明と暗の処理に見せる芸の細かさには心からたまげた。この独創性そしてユーモアは何としたことか。ゴッホ、モネー、ゼザンヌなど印象派の人々が驚倒し夢中で模写したのがよく分かる。日本人である私までが驚倒したのだ。
 展覧会場を後に私は、久しぶりに「どうだ日本人だ、文句あるか」の気分でローマの街を肩で風を切って歩いた。(2009年9月3日号から)

 

自国でノーベル賞をまかなえる国

 昨年のノーベル物理学賞は三人の日本人学者に与えられたが、そのうちの益川敏英氏が興味あることを言われた。「私は海外へいったことが一度もない」と「私は英語ができません」である。
 発言の真意は英語力ではなく「外国に行かなくてもノーベル賞はとれる」である。
 外国への留学をハクと考えたり、幼児から英語などと浮かれている現状への痛烈な皮肉が込められているかも知れない。
 小学校から大学院までの全教育を国内で終え、そのまま国内で研究しノーベル賞をとる、というのは、日本と米英仏独露などをのぞいてほとんないことである。アジアにおける自然科学のノーベル賞は日本が十三人で、他は中国インド台湾など併せて九人である。

 日本人受賞者のほとんどが国内で大学院までの教育を終えたのに反し、他国ではほとんどが欧米で高等教育を受け、引き続き欧米の機関で研究を行っている。
 益川氏だけでなく、湯川秀樹氏や福井健一氏も数学者の小平邦彦氏もフィールズ賞(数学界のノーベル賞)に結びつく仕事の殆どを成し遂げるまでは日本にいた。日本の底力である。

 

 数年前から国立大学の予算が毎年減らされていて、すでに一人当たりGDPに比べた高騰教育費は先進国中最低となっている。責任を転嫁しようと文科省経産省などは、十年ばかり前から産学連携ばかりを叫んでいる。その結果、大学では資金導入のため産業界の役に立ちそうな研究ばかりが強調され、当然ながら学生や研究者はえさに群がるようにそうした分野に集まるようになった。このため基礎科学のごとくすぐには役立たない分野は気息奄々となっている。
 このままでは早晩、日本も自国でノーベル賞をまかなえない普通の国となってしまうだろう。(2009年9月17日号から)

 

事業仕分け

 事業仕分けという政治ショーがようやく終わった。その中である民主党議員がスーパーコンピュータについて「なぜ一位を目指さなくてはいけないんですか。二位ではいけないのですか」と質問、いや詰問したのには驚かされた。この感覚では科学研究を語る資格さえないからだ

 世界中の科学者で世界一を目指さない人はいない。発見とは「世界で初めて」が定義であり、一日遅れで同じ発見をしてもその論文は二番目としてゴミ箱に捨てられるだけだ。私自身、一年かけてやっと証明した定理がすでに証明されていたと判明し愕然としたことがある。その一年がただ無為に暮らしていたのと同じになったからだ。二番はビリと同じなのだ

 

 技術でもみな世界一を目指し努力しやっと上位に残れる。初めから二位狙いでは十位にもなれないだろう。ゼロ査定されたロケットのような大型開発はいったん中止してしまうと回復が長期間にわたり困難となる。せっかく研究を蓄積してきた研究者や技術者が離散してしまうからだ。
 

 費用対効果は科学研究を考える上でのタブーである。例えば素粒子や宇宙物理研究の経済効果は今後百年以上にわたりゼロであろう。
 数学を含めたほぼすべての基礎科学研究の十年後の経済効果は押し並べてゼロといってよい。民間ではできないから国がするのだ

 壮大な無駄遣いをする国でのみ研究者が生息でき、科学研究の豊な土壌や広い裾野が形成される。それがあって初めて画期的発見や、革新的技術が生み出されていく。最低レベルの高等教育予算や科学研究予算をさらに削っては科学技術立国は覚束ない。

 人より何倍も優秀な若者が努力して博士号を取っても研究で生きていくことはできなくなる。そうなったら科学技術を志す少年少女さえいなくなってしまうだろう。資源のないわが国は単なる貧しい島国と成り果てる。(2009年12月17日号から)

 

タックスペイヤー

 この忌まわしい言葉は先日の「事業仕分け」でもしばしば用いられた。最もよく口の回る仕分け委員たちが、あたかも全国民の支持を肩に背負ったかのごとく居丈高に納税者を連発した。「納税者にどんな恩恵があるのか」「納税者の理解が得られない」などの言葉に圧倒された官僚や学者は返答に窮した。「納税者」の意味を「国民と同義」と勘違いしていたからだ。
 

「納税者という国民の経済的側面だけに光を当てる言葉の使用をやめなさい。国民の役割は税金を払うだけではない。文化や芸術を興隆し科学を発達させることで人類に貢献し祖国に栄光を与えるのも国民の大きな役割なのです」
という仕分け委員達への一喝の出なかったことが惜しまれる。(2010年1月14日号から)

 

 付け加えさせていただくと、皆様ご承知の通り、このコラムをお書きの藤原正彦氏は、作家新田次郎氏と藤原てい氏の間に生まれたご次男であり、まだ幼児だったご兄弟妹三人を連れ、昭和20年8月9日のソ連の野蛮な攻撃から、満州逃避行を記した母上の小説『流れる星は生きている』にご兄弟と共に実名で描かれ、食料不足から空の「飯盒をなめたり」しており、他人という気がしない。NHKのBSで放映された『開拓者たち』とあいまって、当時の日本人の苦労と覚悟に妙に得心させられました。

 

引用本の
藤原正彦著『大いなる暗愚』新潮社 に加え、藤原てい著 『流れる星は生きている』中公文庫の併読をもお勧めします。強く感じる何かがあります。

                             以上

 
 

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(321)毒草を食べてみたら?

2011/12/14 14:28

 

  

 

(321)毒草を食べてみたら?

 

 長く都会に住んでいると、どうしても植物に対する防御本能が欠落したようで、身近な植物に毒性が強いものが沢山あるのに知らなかったりする。きっと新潟方面のやたらに詳しい【ご隠居様】に叱られると思うけれど、身近なものだけ書き散らかしてみます。

 

キョウチクトウ(夾竹桃)

 確か広島に原爆が投下された後、いちばん早く花を咲かせたのが、夾竹桃だったかと。で、一応は毒があると知ってはいたんですが、花の部分にだけあると勝手に思っていた。

 ところが実際には、すべてで毒性が非常に強いそうであります。
 おもに「強心配糖体」とかいう心臓に作用する物質が多いとか。オレアンドリン、アディネリンといった聞いたこともない物質が、葉、花、枝、茎、またこいつらを折ったときに出る白い乳液など、植物部分のすべてに含まれ、なにしろ古代ギリシャのアレキサンダー大王が率いる軍隊は、キュウチクトウの枝を串にして肉を焼いたため、多くの兵士を失ったそうであります。同じような事件は、大東亜戦争のとき南方にいた日本軍にも起こったんですと

 

 バーベキューのときなど少量だと、枝が柔らかすぎて串にならず大丈夫らしいのでありますが、どうも一匹丸焼きなんてときに使ったらしい。致死量は体重一キログラムあたり0.30ミリグラムと、青酸カリよりも強烈な成分が、暖められると肉にじゅうぶん毒が沁み込み、さらに煙も猛毒だから燃料の薪にもキョウチクトウを使うと完全だそうな。どうも熱すると猛烈な毒性を発揮するらしのであります。

 

 キョウチクトウは排気ガスなどに強いため、工場の生垣や、高速道路の生垣とかに都合がいい使いかたをされていますけど、「道路が火事になる想定はないらしい」と、著者が皮肉を書いています。高速道路では交通事故で大型トラックが炎上なんてニュースが多いですが、青酸ガスと同程度の煙、そのときこそキョウチクトウはおそろしい毒草として復活するそうであります。ま、君子は危うきには近寄らぬほうが・・・・・・。

 

トリカブト(鳥兜)

 この毒性は常識としてよく知られていますが、シベリアに送られた流刑囚人が、残忍苛烈を極めた過酷な自然に耐え切れず、みずから命を絶つときにしばしば使われたそうであります。「ミツーリカ」という村にあるコルサコフ監視所にトリカブトが茂るんだとか。多くの囚人たちがトリカブトの根の汁をあおって死んそうです。
 

 毒成分は、アコニチン、メサコニチン、ヒバコニチンといった猛毒アルカロイドで、体重60キロのおとなが18ミリグラムで死にいたるとか。
 
 そういえば、北海道のアイヌの方々、このトリカブトをヤジリに塗った仕掛け弓矢を使い、見えないように張り巡らせた細い糸に触れると矢が発射され、熊などを仕留めていたんですが、音もなくどっかから飛んでくる。これが危なくてしょうがない。相当な被害が予想され、猟銃と交換してね? と努力してみたけど駄目、仕方なく法律で禁止したそうで、そりゃ、そうでしょう。かれらは捕鯨もトリカブト毒を使ったといいます。
 もうひとつ、これだけ医学が進歩したのに、トリカブトの解毒剤はいまだ発見されておりません。山草と間違えて食べてしまった例があるとか。(山形県村山市、昭和58年)

 

 山草は若葉の頃はみな同じようで見分けが難しいとか。トリカブトの若葉はゆでると苦味が消えて食べやすくなるそうであります。

 

フクジュソウ(福寿草)

 徳島県の山村に住む七六歳のA子さんは、八年間ずっと心臓と糖尿病を患っていたとか。村の診療所に通っていたものの、どうも思わしくない。そこで「フクジュソウの根を煎じて飲むと心臓にいい」と、誰かに聞いたか、読んだかした記憶があり、山からフクジュソウを採取し、乾燥させて六日後に根を煎じて飲んだ。夫もいっしょに飲んだというのであります。
 

 その直後、異変がおき、突然胃がひっくり返るほどの嘔吐と、激しい痛みが二人を襲ったそうであります。居合わせた家族が病院に運んだのですがA子さんは、毒物による心室性不整脈で死亡、夫は一命は取りとめたものの一週間の入院となった。
 
フクジュソウの毒は、アセポトキシンとかいう強心配糖のほか、20種以上の物質が知られているとか。アセポトキシンの含有量はそのうちの0.25%で致死量は不明だとか。

 

 平成10年4月15日主婦向けの民放番組で「山菜の宝庫・高尾山」と名うち、視聴者に対し、食べられる山菜としてフクジュソウの写真を映し出した。A 子さんの事件が全国紙で取り上げられてからたった六年後の話。

 また、NHKでは「バイケイソウ(毒草)」を山菜と誤報して騒がれたのが平成6年5月14日のことだとか。
 
 幸いにも賢い視聴者が番組直後にフクジュソウの毒性を指摘して、局は夕方のニュースなどで番組の訂正をしたとか。しかし「事前の調査ミス。植物の知識が少なく確認にとまどった」とのコメントを出したが、「知識が少ない」まま内容を確認せず、また高尾山に行って取材もしていなかった。高尾山で「関係者の話を聞く」との報道の基本を守っていれば、自生もしていないフクジュソウを「山菜の宝庫・高尾山」として取り上げることもなかったはずと非難が集中した。専門家たちが「恐ろしい」と慨嘆したとのこと。テレビと毒草は怖いというお話です。

 

 フクジュソウは珍しい植物ではなく、北海道から九州までの山林に広く分布し、年末には花屋の店先に鉢植えが並ぶ。漢字で「福を寿ぐ」と書く(福寿草)は、他の花が眠っている間にいち早く大地から顔をのぞかせて「めでたや、嬉しや」となって、昔から正月に床飾りにされてきたから、「元日草」ともいわれていたそうです。殆どの植物辞典には、故事由来とともに、「キンポウゲ科・有毒」と書いてあるそうです。

 

 その他毒草で、皆さんお馴染みの植物を少しだけ書いておきますと、

シキミ(墓地に多い)
アサ(麻)
スイトピー
ヒガンバナ(彼岸花)
スズラン(鈴蘭)
イラクサ
イヌサフラン
スイセン(水仙)
アイリス
チョウセンアサガオ(朝鮮朝顔)
エゴノキ
 その他一杯ありますが、ネットなどでお調べのほど。でも結構あるんですね、やばいのが。

 

引用書籍:『毒草を食べてみた』植松黎 著 文春新書099 2000年刊

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